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現在からの視座 

塩出 麻美 Asami Shiode

2017年度 卒業制作 「いるか如何か」

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《いるか如何か》2017

 「完全オリジナルの表現は存在しない」という話を良く聞く。鑑賞者が作品を「◯◯から派生した××」、「◯◯と××の融合」など美術史の推理から理解しようとするのも、もはや否定する事でもない。そんな現代美術の最中、技術だけでなく鑑賞体験や美術史の知識も乏しい若者が、何もかも手探りで描く「初作」とはどういう存在だろうか。

 美術史を進めてやるぞ、なんて思ってまさか描かない。少なくとも当時の私はそうで、ほぼ初めての100号大キャンバスは全体が把握出来ず、一筆を簡単に飲み込むホワイトアウト空間に苦しんだ。辛うじて手に実感出来ている一筆すら、意図せぬ絵の具の混じり具合で唇を噛む。ただ、そんな絵画の物理的根幹問題をさておいてでも取り組まなくてはならないものが、この時大きく横たわっていた。

 「あなたは何をするの?」という問いである。

 そもそも普段立体として存在している私たちに、最初から平面内を実感する事は出来ない。勿論、この場で青春よろしく悶々ジタバタして「悩んだこと自体に価値がある」と言えるものでもない。

・自分のしたい事 ・自分が立っている場所 ・異質な空間の法則

それらが分からないまま制作するという具合になる。文字に起こすと何とも困難にも思える。

 経験が表現の全てだろうか。今になって思うのは、技術や知識の増加、アートシーンでの自分の「立ち位置」を知る事は、制作を深め時には根幹に食い込むが、「そのもの」ではないという事である。「私は私を網膜越しですら一度も見た事がない」という事実は、未だこの時と変わらない。この無知のホワイトアウトこそ一番自由な空間という見方も出来る。

 無知を気取るか経験すべきか、如何なのか。

 とにもかくにも、そんな作家の悩みなんぞは知らんという風に。意外といかなる時もそこに存在する死に、一筆は急かされる。「何をするのか」ということに対して回答が得られたとすれば、その瞬間は平面に存在「出来た」瞬間だろう(たとえそのすぐ後、不在を実感するとしても)。その瞬間、どんなに経験不足の絵であろうと、絵画は成立するのではないか。

近年の作品

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